■木津志集落の特徴

 木津志集落には、昔「木津志鉱山」と言われる金を産出していた廃鉱山があり、集落内を流れる「木津志川」では、今でも僅かではあるが砂金を取ることができると言われています。

 また、集落には「平家の落ち武者集落」としての古い歴史がある。かの関ヶ原の戦いにて、敗北した四国の長宗我部(ちょうそかべ)の一族が、戦国末期、徳川家康側であった「山内一豊」に追われ、島津義弘公を頼って移住し住み着いたといわれています。(薩摩の島津も同様に豊臣側であった)

 また集落中央の山頂には、「上脇城跡」がある。山頂にある城跡では、現在でも崩れ落ちた石垣などを今でも見ることができます。

 参考:薩摩に落ちのびた長宗我部家ゆかりの人々

 参考:田舎の町村を消せ!市町村合併に抗うムラの論理

■木津志集落のここがオススメ

★自然と触れあえる 親水公園

 親水公園は、整備された川辺やイベントの会場などとして利用されており、釣りなども行われています。

 イベント時には、子供たちによる太鼓の生演奏なども聴く事ができます。

★山伏しの里 木津志

 昔、木津志は「山伏の里」で、「木津志山伏」と呼ばれ、薩摩藩政時代は島津支配下の中でも相当な力を持っていました。

 山伏とは:日本各地の霊山と呼ばれる山々を踏破し、懺悔などの厳しい苦行(修行)を行って、山岳が持つ自然の霊力を身につけることを目的とした人のこと。戦国時代では、各地の大名や豪族に贔屓(ひいき)にされ、一種の密偵(スパイ)の役割を命じられたりするなど、重宝されることもあった。しかし、神仏をはっきり分とうとする明治維新政府の忌諱するところとなり、明治5年に「山伏の道」「修験道」は一切廃止されました。

 参考:『山伏』 和歌森太郎・中公新書

 現在では、「木津志の山伏踊り」とも言われる、山伏一行の鬼神退治を野外で演じる「野外劇」が姶良市の「無形民族文化財」として受け継がれている。野外劇のクライマックスでは、爆竹や花火の演出があり、登場人物も60~70人と大掛かりで非常に見応えのあるものとなっています。

 参考:木津志の山伏踊り(姶良市デジタルミュージアム)

★相撲甚句・山伏しの里ウオーキング

 30年程前から行われている「相撲甚句」も人気があります。

 相撲甚句とは:花相撲や巡業相撲の土俵上で力士が披露する甚句(元日本民謡の一種)のこと。力士が余興的に土俵で歌い、それに合わせて踊ったことからこの名前が生まれ、「どすこい どすこい」の合いの手が入る。

 「山伏しの里ウオーキング」と題して、山伏のホラ貝の合図をスタートとして、「木津志小学校跡地」から「親水公園」、「滝の神」、「城野神社」を経由して、小学校跡地に戻ってくるイベントとなっています。