■北山下集落のここがオススメ

★綱引き

十五夜の夜には、綱引きが行われます。

十五夜の綱は、竜や蛇を表現していると考えられています。

蛇は脱皮して生まれ変わるのと同様に、月も、満月と新月を繰り返します。つまり、蛇も月も、いわゆる「死と再生」を繰り返していると言えるわけです。

そのことが、不老不死、ひいては健康祈願の願いに繋がっていると言われており、川に綱を投げ入れるのも、「竜蛇に悪いモノを憑かせて、集落を清め、再生させる」と意味が込められているんだそうです。

また、月が出ると夜露が降りますが、露は水をイメージさせ、水は農作物にとって大切なものであるため、これらのことから豊作祈願の願いに繋がっているといわれています。

「健康祈願」と「豊作祈願」を祈るために、今でも各地で十五夜の綱引きが行われているのです。

 

★お化粧した田の神様

田の神様は、冬は山の神、春は里におりて田の神となって田を守り、豊作をもたらす神様として信仰されています。

「田の神」信仰は、古来から全国的な民俗行事として農村に浸透していますが、「田の神」を石像化し豊作を祈願する風習は、18世紀初め薩摩藩が始めた独特の文化なのはご存知でしょうか。

当時「田の神」の石像ができたころは、霧島の噴火・天災などが原因で、農家にとってとても厳しい時代でした。

江戸時代からの赤字経済を続けていた薩摩藩は、収穫を増やすために稲作を奨励する政策を行っており、農家は山々の噴火をやめさせ、稲作の豊作を願って寄りどころとなるの像を作ったのがきっかけになったと言われています。

そんな中、年1回春に、田の神様に念入りに化粧が施されたうえ、戸外にかつぎ出して花見をさせ、「宿うつり(田の神戻し)」というものを行います。

「田の神戻し」とは、子孫繁栄を祈って新婚夫婦の家に田の神様を一年間招き入れ、春になると次の家に引越しさせる神事の事です。

祭りの日には、夫婦は一年の感謝を込めて田の神様を綺麗に洗い、白色や赤色の化粧を施します。そして、季節の花でいっぱいになった籠などに入れられて次のお宿(家)へ運ばれていくのです。

しかし、近年の田舎の少子高齢化やにより、田の神様の行き場は無くなりつつあります。

田の神様にも「自然石」、「地蔵型」、「神官型」、「農民型」の田の神様の4種類があり、鹿児島県では「農民型」が多く、宮崎県では「神官型」が多いとされています。

北山下集落にある田の神様は「農民型」で、シキを被り、右手にメシゲ、左手にお椀を持って表情豊かにユーモラスに踊る姿等の姿が多く見られています。

★梅北神社

「梅北神社」は、梅北国兼が、国許とされる山田庄馬場に「神」として祀られ、建立されたものです。

梅北国兼は、島津氏の家臣で元々は肝付氏の一族にあたり、大隅国の国人でした。数々の戦いを経て、目覚ましい功績を示し、大隅帖佐郷山田(現:鹿児島県姶良市)の地頭に任じられ、山田時代には北山地区に山城を築いてここを根拠としていました。

しかし、豊臣秀吉による朝鮮出兵や、豊臣氏による支配に対して反発した梅北国兼は、天正二十年、城主が朝鮮半島に出兵していて手薄になっていた芦北の「佐敷城」を、佐敷の農民を味方に引き込んで攻め込み、城の乗っ取りに成功しました。これは「梅北の乱」として、現在は高校の教科書などにも掲載されています。

最終的に、豊臣秀吉を討つ事を望んていたとされる梅北国兼でしたが、城を乗っ取ってから3日後に、留守を預かっていた坂井善左衛門らにより、酒宴によって油断させられ、逆に討ち取られてしまいます。

さらに「梅北の乱」の責任として、国兼の黒幕とされた島津歳久が詰め腹を切り、一揆に家臣が参加したという理由で、阿蘇宮司で当時十三歳の阿蘇惟光が熊本花岡山で斬首され、密謀の同盟者とされる佐賀の江上家種は、意外な変死を遂げるなど、悲惨な決着となりました。

元々、豊臣秀吉からの朝鮮出兵を、病気を理由に断っており、依然から豊臣秀吉に強い敵意を持っていた「島津歳久」は、「梅北の乱」をきっかけに自害する事となりました。

領地をよく治めた歳久は、家臣や領民にとても慕われており、結果として「梅北の乱」が歳久の命をも奪うことになってしまったのです。

現在も集落内に残る神社の前面には、二基の石灯籠と「梅北神社」と雄渾に彫られた石碑が建っています。

石灯籠には、貞享(一六八四~一六八七)と元禄(一六八八~一七〇三)の記念碑があり、この神社がかなり古くから祭祀されていることがわかります。

また、石碑の筆者と献納者は、西郷従道(西郷隆盛の実弟)となっており、「もし一揆が成功していれば、梅北国兼は薩摩藩の英雄として正々堂々尊敬を集めただろうが、失敗したため見殺しにされたのではないか」などの憶測があるなど、「梅北の乱」の本当の意図は未だ謎に包まれています。